【はたらくスペシャル】「病気を原動力に」-医師・石井洋介が語る生き方(前編)

ライフ・はたらく2020/4/17

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潰瘍性大腸炎である消化器外科医として、また、アプリゲーム「うんコレ」の開発者としても知られる石井洋介先生。自身のクリニックで診療する傍ら、最近では、ニコニコ動画の参加型イベント「ニコニコ超会議」で人生相談も可能なバーチャルドクター相談室を開いたり、IT関連の人材を育成する専門学校で「デジタルヘルス」をテーマにした講演会を行うなど、“医師”という枠を超えたユニークな取り組みが、若者たちを中心に注目を集めています。まさに「医療業界の異端児」と言える石井先生ですが、その陰には、たゆまぬ努力と多くの苦悩がありました。

【前編】となる今回は、「潰瘍性大腸炎発病からの挫折」そして「偏差値30からの医学部受験」についてお聞きしました。

石井 洋介さん

石井 洋介さん(39歳/潰瘍性大腸炎歴23年)

1980年7月生まれ、神奈川県出身。15歳の頃に潰瘍性大腸炎の診断を受ける。2010年高知大学医学部卒業後、横浜市立市民病院外科・IBD科医師、厚生労働省医系技官を経て、現在は株式会社omniheal代表取締役、おうちの診療所目黒、秋葉原内科saveクリニック共同代表。高知県の臨床研修医増加を実現した「コーチレジ」の立ち上げ、大腸がん等の知識普及を目的とした「日本うんこ学会」設立、スマホゲーム「うんコレ」の開発・監修に携わる。

公式ホームページ:141ちゃんねる

難病と告げられたことよりも、食事制限がショックだった

――石井先生は医師という職業を超えて、とてもユニークな活動をされていますが、幼少期はどのようなお子さんだったのでしょうか?

石井洋介先生(以下、石井先生): うちは、母がバリバリのキャリアウーマンで、父がいわゆるダメおやじだったそうです(笑)。自宅は昭和の香りが残る商店街にあり、父に連れられて、近所の銭湯によく通っていました。貧しい人、片親の人、入れ墨の人など、本当にいろいろな境遇の人がいましたが、そこで過ごす時間はとても楽しいものでした。両親の離婚などもあり、その街で暮らしたのは小学3年生くらいまでですが、今でも原風景として心に強く残っています。このときにいろいろな人と接したせいか、環境に溶け込む技術は、幼い頃から長けていたような気がします。

――潰瘍性大腸炎を発病された頃のことについて、お聞かせください。

石井先生: 最初に異変を感じたのは中学3年生の冬、何の前触れもなく血便が出たんです。でも、このときは「受験勉強のストレスで痔になったのかな?」と思い、病院にも行きませんでした。

本格的に体調がおかしくなったのは、高校1年の夏ですね。トイレが近くなり、微熱が続くようになったんです。そのうち38度以上の高熱が出るようになり、クリニックを受診しましたが、風邪と診断されました。しかし、2週間以上経っても良くならず、心配した祖父母が、大きい病院に連れて行ってくれました。このときに、僕は血便が重要な情報であることを知らなかったため上手く伝えることができず、症状を聞いた医師は、当時流行していたマイコプラズマ肺炎を疑い、入院して検査を受けることになりました。しばらく原因不明のままでしたが、おなかの触診で痛みを訴えたことから「潰瘍性大腸炎かも」という話になり、その後の内視鏡検査で確定診断されました。

――潰瘍性大腸炎と診断されて、どのようなお気持ちでしたか?

石井先生: 難病だと言われましたが、あまりピンとこなかったですね…。それよりもショックだったのは、「食事制限」の話をされたことです。栄養士さんから、おなかに悪い食べ物の話をされたのですが、このときの僕は「おなかに悪い=食べてはいけない」と思い、「これから先、うどんくらいしか食べられないじゃん…」と、すごく悲しい気持ちになりました。このときは、サラゾピリンのみで回復しましたが、結局、学期末から夏休みの終わりまで入院しました。

どこにも居場所がない暗黒の4年間…「死」に直面して人生観が激変

――学校に戻ったとき、クラスメイトには潰瘍性大腸炎について、どのように説明されたのですか?

石井先生: 「胃潰瘍みたいなものが腸にできた」と説明したので、「ストレスでもあるの?」と、聞かれたくらいでした。ただ、食事制限のことは、どうしても話すことができませんでした…。そのため、今まで通り「ごはん食べて帰ろう!」と誘われるわけです。断れずに行くのですが、食べられないのでコーンスープだけ頼んだりして…突っ込まれると、「今、お金なくて」と苦しい言い訳をしていましたね。次第に付き合いが悪くなり、周囲からは「変なヤツ」という目で見られるようになっていきました。図書館に逃げ込んでも1人で過ごすことに慣れていなかったので落ち着かず、だんだん学校から足が遠のいていきました。

気持ちが落ちてくるにつれて、体調も悪くなっていきました。当時、山手線で通学していたのですが、全部の駅で下車してトイレに駆け込むような状態で…。そのうち、渋谷とかで降りると「このまま遊んじゃおう!」って感じで、1人で映画館に行ったり、街をフラフラしたりすることが多くなっていきました。やがて、街でたむろしている同じ年頃の子たちと、一緒に遊ぶようになりました。

授業にもついていけなくなり0点を取ることもありましたが、のんびりした学校だったので、テストに名前だけ書けば進級させてもらえました。でも、教室では誰とも話さず、渋谷のコミュニティにも馴染みきれず、家も決して居心地が良いわけではなかったので、本当の居場所はどこにもありませんでした。まさに「社会的ひきこもり」状態ですね。高校3年生になった頃には、もう外出する気力もなく、ほとんど自宅で過ごしていました。テスト前だけ学校近くのホテルに泊まり、担任に送り迎えをしてもらうような状態で…結局、僕の高校生活は、そのまま幕を閉じました。

――高校卒業後は、どうされていたのでしょうか?

石井先生: 体調が悪くて何もできない状態でした。そのうち熱が下がらなくなり、19歳の秋に入院。このときはステロイドのパルス療法(大量のステロイドを3~5日間点滴する治療法)やカテーテル治療など、いろいろな治療を受けました。完全絶食でTPN(中心静脈栄養)だったため、体重は50キロ台から30キロ台まで落ちました。

その後、大量出血し、主治医の先生から「命を救うには、大腸全摘手術をするしかない」と言われ、手術を決断しました。このとき、初めてリアルに“死”を意識したんです。それまでの4年間は「いつ死んでもいいや…」という投げやりな気持ちで毎日過ごしていました。でも、いざ死に直面すると、「今まで何やっていたんだろう…これで終わっちゃうのかな」という気持ちになり、「死ぬとしても、4年間あればボランティアとか、自分の身体を使って、もっと誰かの役に立てたんじゃないか、誰かを助けられたんじゃないか」という激しい後悔の念が湧いてきたんです。そしてぼんやりとした意識の中で、「もし助かることができたら、誰かの役に立つ人生を送ろう!」と、心に決めたのです。

――人工肛門(ストーマ)になったことが、外科医を目指すきっかけになったと伺いましたが。

石井先生: 手術は無事終わったのですが、目を覚ましたときにはストーマになっていました。医師からは一生このままだと告げられ、相当落ち込みましたね。でも、運良くインターネットで同じ病気の人たちとつながることができ、情報交換をしていくうちに、「横浜市立市民病院なら、ストーマ閉鎖手術ができるかもしれない」ということを知ったのです。同時期に母も同様の情報を探し当ててくれて、わらにもすがる思いでその病院で相談したところ、手術してもらえることになったのです。このストーマ閉鎖手術をきっかけに、「卓越したスキルは人を救うんだ。僕もこの病院の外科医になりたい!」と、強く思うようになりました。

偏差値30からの医学部受験は、「攻略」して勝つしかない!

――高校にほとんど行っておらず、さらに2年のブランクがあるという状態での医学部受験に、不安はなかったのでしょうか?

石井先生: 人生で初めて見つけた夢だったので「絶対に叶えてみせる!」という、非常に前向きな気持ちでした。ただ、偏差値は30程度だったので、いきなり予備校に入ってもついていけないと思い、最初は自宅で通信講座や参考書を集中的にやって基礎学力をつけることに専念しました。高校1年生のドリルから始めましたね。

石井先生

――1日に何時間くらい受験勉強をしていたのでしょうか?勉強法などがあれば教えてください。

石井先生: 8時間くらいですかね。最初は机に向かうことに慣れていなかったし、体力も落ちていたので、20分くらいしか座っていられませんでした。そこで、「写経」とでも言うのでしょうか、何かをひたすら書き写す訓練を始めたんです。あの有名なヤンキー先生も写経から始めたそうです。これは、体力が落ちているIBDの人にもおすすめです。書き写すものは何でもいいのですが、内容が難しいものだとイヤになってしまうので、興味のある本や、わかりやすい記事などがいいですね。僕は、天声人語や心理学の本など、興味のあったものをひたすら書き写しました。

――最初の医学部受験はいかがでしたか?

石井先生: 0からのスタートだったので、やればやるだけ伸びて「自分は天才なんじゃないか?」と思っていました(笑)。ですが、予備校に通い始めてからは違いました。すごく引っ込み思案になっていて、誰にも話しかけられなかったんです。5年近く人と触れてなかったですから…。それでモチベーションも下がってしまい、偏差値50を超える頃から成績も伸び悩むようになり、1年目の受験は大惨敗でした。医学部以外の道も一瞬考えたのですが、医師になるという夢を諦めきれず、もう1年だけがんばってみることにしたんです。

――1年目の失敗をふまえて、2年目はどのような努力をされたのでしょうか?

石井先生: 1年目の失敗から、モチベーションを保つためにも情報を得るためにも、友達が絶対に必要だと感じていました。そこで、戦略的に友達を作ろうと決意し、コミュニケーション術みたいな本をたくさん読んで、いろいろな人に積極的に話しかけました。また、勉強法もガラリと変えました。医学部志望者は優等生が多いので、すべての教科で高得点を狙っても、彼らを抜くのは難しいと考えたのです。それに、病気というハンディキャップもあるので、体力的にも太刀打ちできないと思いました。そこで、志望校を絞り、そこに出る教科をひたすら強化して、それ以外はセンター対策のみとしました。まさにゲームの攻略をしているような感じでしたね。

――その作戦が功を奏して、高知大学医学部に合格されたんですね!

石井先生: ネットで合格発表を見たのですが、自分の番号を見つけても、最初はあまり実感が湧かず…(笑)。しばらく経ってから「これで医学部に行けるんだ!」と、人生がパーッと開けた感じがしました。

(IBDプラス編集部)

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