たくさんの生きづらさに、寄り添いながら生きていく-ノウフク連携から見えたこと

ライフ・はたらく2024/3/29

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今回ご紹介するのは、農業と福祉の連携「ノウフク」をテーマに、さまざまな活動を続けている天野雄一郎さんです。旅好きが高じて大手旅行会社に就職したという天野さんですが、旅をゆったり楽しむ暇もないまま数字に追われ、仕事に忙殺される毎日。そんな中、潰瘍性大腸炎と診断され、突如心に浮かび上がってきた「自分への問い」とは?病気になって得たものとは?働き方について悩んでいるという方も、ぜひご一読ください!

天野雄一郎さん(39歳/潰瘍性大腸炎歴12年)

大学時代からバックパッカーや海外ボランティアを経験。大学卒業後に大手旅行会社に就職。営業担当、添乗員として多忙な毎日を送る中、潰瘍性大腸炎を発病。自分にとっての豊かさについて悩み、3年後に退職して妻の実家がある鹿児島県の大隅半島に移住。農業と福祉連携の「ノウフク」をテーマにさまざまな活動を続け、現在は「大隅半島ノウフクコンソーシアム」事務局、NPO法人「たがやす」理事などを務める。

全てはお客様のために。がむしゃらに働く自分にブレーキをかけてくれた潰瘍性大腸炎

――大学卒業後、大手旅行会社で働かれていたとのことですが、その頃の仕事内容や働き方について教えてください

主に、教育旅行と呼ばれる修学旅行や部活の遠征などの営業と添乗員の仕事をしていました。朝早く出社して、昼は営業、日が暮れると会社に戻って事務作業や残務をこなし、その後飲みに行って夜中に帰宅、翌日また早朝から仕事、みたいな毎日でしたね(笑)。昼夜問わず電話が入り、休日も心が休まる暇はありませんでした。会社での存在意義は「数字」が全てでしたし、常に「お客様のために」と言われ、自分もそのように意識して動いていました。仕事は楽しかったですし、あの時の経験があったからこそ、今があるとも感じています。ただ、「働き方」としては、自分に合っていなかったんだと思います。

――潰瘍性大腸炎と診断を受けるまでの経緯をお聞かせください

2012年の夏、下痢と腹痛が数日続き、トイレに行ったら下血したんです。すごく怖くなって、すぐに総合病院を受診しました。そこでの内視鏡検査の結果、潰瘍性大腸炎と診断され、ペンタサとステロイドが処方されました。入院こそしませんでしたが、ステロイドが切れると途端に具合が悪くなるので、いつも不安でしたね。添乗の仕事は、おむつを履きながらやっていました。病気のことは会社に話していたので通院は問題なくできていましたが、休みが増えるわけではなかったので、仕事のハードさは変わりませんでした。食べるとトイレの回数が増えるので、あまり食べられなくなり、10kg痩せました。その後、2013年頃から、レミケード治療を開始しました。

――潰瘍性大腸炎という診断を受けた時、どのようなお気持ちでしたか

潰瘍性大腸炎を知らなかったので、医師から病名を告げられた時は特に何も思いませんでした。帰宅してからネットで同じ病気の有名人とか調べていくうちに「一生つき合っていかなければならない病気」だと理解しました。死と隣り合わせの病気ではないこともわかりましたが、一瞬「死」をリアルに感じました。その時ふと、このままでいいのだろうかと思い、自分にとっての「豊かさ」とは何か、初めて真剣に考えたんです。そういうことを考える年齢と重なったというのもあるかもしれませんが、立ち止まって考えるきっかけをくれたのは間違いなく潰瘍性大腸炎だったと思います。とはいえ、家族もいますし、お給料も良かったので、なかなか退職には踏み切れませんでした。

その後も、自分の人生について考えることは続きました。旅が好きで旅行会社に就職したのですが、自分が思う「旅の素晴らしさ」を考えてみた時に、「旅先での出逢いや、人とのふれあいが好きなんだ。旅を企画したいんじゃなくて、その先にあるものを作っていきたいんだ」と、ハッと気づいたんです。そうしたら一気に肩の力が抜けて、今の働き方に固執しなくていいんだって、心の底から思えたんです。

妻の実家がある鹿児島県大隅半島での就職を視野に、自分が興味のある「農業・社会貢献・福祉・田舎暮らし」といったキーワードで職探しをしていたところ、ある社会福祉法人のウェブサイトが目に留まりました。そこには、障害のある人たちが農業・畜産・接客などに携わりながら社会とつながって働く様子が掲載されていました。みんなが本当に幸せそうな顔をしていることに衝撃を受けて、その社会福祉法人が推進している「ノウフク」、つまり農業と福祉の連携(農福連携)に興味を持ちました。すぐにそこの理事長さんに電話をして「自分は農業も福祉の経験もありませんが、今は大手旅行会社で営業として働いています。ぜひ、こちらに就職させてください!」と、直談判したんです。その後、何度か面談などを重ねて採用が決まり、福岡県から鹿児島県の社宅に家族と移り住みました。

新天地での第一歩。「ノウフク」を通して見えてきたこと、感じたことは?

――新たな職場で、初めての経験がたくさんあったと思いますが、衝撃を受けたことはありますか

一番驚いたのは、みんなが「緩やかな働き方」をしているということですね。数字に縛られていないし、定時になればみんな帰ります。年収は以前の半分以下になりましたが、身体がすごく楽になりました。働き出して2年くらい経った頃に一度体調を崩して絶食とステロイドの点滴をするため1か月くらい入院したのですが、みんなすごく心配して優しい言葉をかけてくれました。支援対象者の中には難病患者さんもいたので、突然の入院に対する理解もあったのだと思います。

――鹿児島に移住後から現在までの治療について教えてください

鹿児島に移住後も1~2か月に1回のペースでレミケードの治療を続けていました。病院まで片道3時間くらいかかるので、1か月に1回というのはちょっと大変でしたね(笑)。しかも、レミケードがだんだん効かなくなってきました。先程お話ししたように一度入院もしましたが、退院後もしばらくはレミケード治療を続けていました。その後、先生に治験への参加を提案され、2019年から現在までは治験薬とペンタサ、あとは血圧が高くなってしまったので降圧薬も飲んでいます。

より自分らしい働き方を目指して独立。ノウフク連携、空き家対策、観光事業などに従事

――2022年に独立されたそうですが、きっかけを教えてください

障害のある人たちができることをもっと知って欲しい、それを大隅半島から発信していきたいと考え、全国で営業活動を続けていました。そんな中、ある県職員の方から、「大隅半島ノウフクコンソーシアム」のお話をいただきました。このコンソーシアムは、ノウフク連携の推進と発展のため、農業法人・福祉事業者・行政などとの横断的なつながりをつくることを目的に発足されたものです。僕は職場の了解を得て、コンソーシアムの事務局を務めることになりました。しかし、了解を得たとはいえ組織に所属しているので、動ける時間や範囲には制限が出てきてしまいます。僕自身、もっと活動する地域を広げたいし、時間に縛られずにコンソーシアムや全国のノウフク連携のプロジェクトを進めていきたいという気持ちがあったので、一度退職し、再度大隅半島ノウフクコンソーシアムの仕事を請け負うという形で関わらせていただくことにしました。在職中には、当時の錦江町の町長から「未来づくりの協議会ができるので、理事として参画してみないか」とお声がけいただき、そちらにも参画させていただいていました。

地域の課題は生きづらさを抱えている人たちの雇用問題や高齢化だけではありません。空き家問題もありますし、農業の獣害被害、地域経済の疲弊など、問題は山積みです。そこで、僕と同じような志を持つメンバーそれぞれが自分の納得する人生を送りながら、それらの地域課題に対してチャレンジする土壌をつくりたいと考え、NPO法人「たがやす」を立ち上げました。メンバーのバックグラウンドは、ライター、神主、ゲストハウスのオーナー、現役フルート奏者、建築士など、本当にさまざまです。

――今はどのようなお仕事をメインに、どんな働き方をされているのでしょうか

ノウフク

ノウフク連携について講演を依頼されることも

ノウフク連携を軸に仕事やボランティアをしています。大隅半島ノウフクコンソーシアムの活動と、「たがやす」では主に、図書館事業と認知症カフェなどを運営しています。農林水産省のプロジェクトに参加している企業にも複数所属しています。また、新たに官公庁のインバウンド事業として、大隅半島の観光事業と空き家の補助事業なども始めました。

仕事の領域にはあまりこだわっていないんです。「自分が楽しいと思うことが、誰かのためになっている」と感じられる時が一番楽しいですね。ノウフク連携もそうですし、空き家対策事業もそうですし、自分が培ってきたスキルと地域のリソースを合わせると、できることって意外と多いと感じます。将来的には、大隅半島に大きな「業」(農業などの業)を生み出したいですね。大きな業が一つあることで、地域がもっと元気になっていくと思います。

今は本当にストレスフリーな働き方ができています。早朝から出張する日もあれば、10時過ぎに仕事を始める日もあります。また、僕は思い立ったら即行動というタイプなので、自由に動けるという点も、自分に合っていると感じます。その分、収入が不安定になりがちなので、講演会の仕事を受けたり官公庁のプロジェクトなどに積極的に参加したりして、安定した基盤づくりを心掛けています。

潰瘍性大腸炎という「生きづらさ」を抱える端くれとして、同じ悩みを抱える人たちに寄り添っていきたい

――潰瘍性大腸炎であるからこその強みがあれば教えてください

病気になってつらい経験をたくさんしたので、障害をもつ人や、今の世の中が生きづらい、働きづらいという人たちの気持ちが本当によくわかるんです。生きづらさを抱えている端くれとして、これからもそういう人たちに寄り添っていきたいですし、いつかはそれが仕事になればいいなと思いながら、活動を続けています。

――働き方に悩んでいるIBD 患者さんに向けて、メッセージをお願いします

まず自分の気持ちを第一に考えて欲しいです。僕の場合はそれが「自分にとっての豊かさって何だろう」という問いでした。自分の人生について考えるようになったのは潰瘍性大腸炎になったからですし、それが自分の原動力になりました。そして、前に進むためにも「おむつしてるじゃん、俺!」というように、潰瘍性大腸炎で起こる出来事を一つでも「笑い」に変換してもらえたら(笑)。あとは、ひとりで悩まないで欲しいですね。リアルでもオンラインでもいいので、自分の居場所があると心強いと思います。みんなで頑張っていきましょう!!

(IBDプラス編集部)

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